廣田神社 摂末社のご案内
■摂社
境内社:伊和志豆神社
境外社:南宮・兒社・名次神社・岡田神社・若宮神社
名称 | 写真 | 詳細 | 地図 |
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伊和志豆神社 | ![]() |
御祭神;伊和志豆之大神(いわしずのおおかみ)創立年代は詳でないが、清和天皇貞観元年(859)正月27日従五位 下より従五位上に進み、延喜の制には官幣小社に列せられる。室町時代には国の神事を司った神祇官の長官を世襲した白川神祇伯の祇 を修した六社の内の一社として厚い崇敬を集めていた。御祭神は一説によれば彦坐命(開化天皇の皇子なる日子坐王で廣田神社 を創建せられた神功皇后はその4世の孫にあたる)を祀るといわれている。もとは廣田本社より東南約1.5キロのところに在り、大正6年7月16日 に廣田神社の境内に移転したが、戦災後は本社に合祀していた。平成2(1990)年の御大典にあたり社殿を再建し奉斎することとなっ た。兵庫県武庫郡の延喜式内者は、廣田神社本社、摂社・名次神社、摂社・ 岡田神社、摂社・伊和志豆神社の四社でいずれも廣田神社の所轄である。 |
廣田神社境内 |
南宮 | ![]() |
祭神;豊玉姫神 ・市杵島姫神 ・大山咋神 ・葉山姫神当社は、西宮市大社町に鎮座する廣田神社の摂社で、「浜南宮」とも称されました。平安時代には都の貴族が参詣し、『梁塵秘抄』には「浜の南宮は如意や宝珠の玉を持ち」と歌われています。神功皇后が豊浦津で得られたという、廣田神社の宝物「剣珠」は、もと南宮に収められていました。 |
西宮市社家町10 |
兒社 | ![]() |
祭神;兒社神当社は、廣田神社摂社である南宮神社の末社で、南宮の若宮として祀られたといいます。平安時代末期に成立した歌謡集『梁塵秘抄』には「南宮の御前に朝日さし、兒の御前に夕日さし、松原如来の御前には、つかさまさりの重波ぞたつ」と歌われています。 |
西宮市社家町9 |
名次神社 | ![]() |
祭神;名次大神創立年は詳らかではありませんが、平安時代初期の文献に見られます。『延喜式』 では官幣の大社に列し、廣田社と共に祈雨神祭に預かっています。中世には神祇 伯を世襲した白川家の崇敬を受けました。 明治11 年、廣田神社の摂社に定められました。 もと、名次山の景勝地に鎮座していましたが、明治41 年に現在地に移転しまし た。 |
西宮市名次町13 |
岡田神社 | ![]() |
祭神;岡田大神創立年は詳らかではありませんが、『延喜式』神名帳には「岡太神社」として官 幣小社に列されています。 また、筑前国岡田村の者が神功皇后に従ってこの地に至り、廣田神社造営のため 廣田村に居住、その子孫が先祖の霊を祀ったとも伝えられています。 |
西宮市岡田山66 |
若宮神社 | ![]() |
祭神;若宮大神創立年は詳らかではありませんが、戦国時代のものとされる「廣田殿社中宮立之覚」(『西宮神社文書』)にみられる「若宮殿」が当社のことと考えられています。 明治11年、廣田神社摂社に定められました。 |
西宮市高座町181 |
名称 | 写真 | 詳細 | 地図 |
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伊和志豆神社 | ![]() |
御祭神;伊和志豆之大神(いわしずのおおかみ)創立年代は詳でないが、清和天皇貞観元年(859)正月27日従五位 下より従五位上に進み、延喜の制には官幣小社に列せられる。室町時代には国の神事を司った神祇官の長官を世襲した白川神祇伯の祇 を修した六社の内の一社として厚い崇敬を集めていた。御祭神は一説によれば彦坐命(開化天皇の皇子なる日子坐王で廣田神社 を創建せられた神功皇后はその4世の孫にあたる)を祀るといわれている。もとは廣田本社より東南約1.5キロのところに在り、大正6年7月16日 に廣田神社の境内に移転したが、戦災後は本社に合祀していた。平成2(1990)年の御大典にあたり社殿を再建し奉斎することとなっ た。兵庫県武庫郡の延喜式内者は、廣田神社本社、摂社・名次神社、摂社・ 岡田神社、摂社・伊和志豆神社の四社でいずれも廣田神社の所轄である。 |
廣田神社境内 |
南宮 | ![]() |
祭神;豊玉姫神 ・市杵島姫神 ・大山咋神 ・葉山姫神当社は、西宮市大社町に鎮座する廣田神社の摂社で、「浜南宮」とも称されました。平安時代には都の貴族が参詣し、『梁塵秘抄』には「浜の南宮は如意や宝珠の玉を持ち」と歌われています。神功皇后が豊浦津で得られたという、廣田神社の宝物「剣珠」は、もと南宮に収められていました。 |
西宮市社家町10 |
兒社 | ![]() |
祭神;兒社神当社は、廣田神社摂社である南宮神社の末社で、南宮の若宮として祀られたといいます。平安時代末期に成立した歌謡集『梁塵秘抄』には「南宮の御前に朝日さし、兒の御前に夕日さし、松原如来の御前には、つかさまさりの重波ぞたつ」と歌われています。 |
西宮市社家町9 |
名次神社 | ![]() |
祭神;名次大神創立年は詳らかではありませんが、平安時代初期の文献に見られます。『延喜式』 では官幣の大社に列し、廣田社と共に祈雨神祭に預かっています。中世には神祇 伯を世襲した白川家の崇敬を受けました。 明治11 年、廣田神社の摂社に定められました。 もと、名次山の景勝地に鎮座していましたが、明治41 年に現在地に移転しまし た。 |
西宮市名次町13 |
岡田神社 | ![]() |
祭神;岡田大神創立年は詳らかではありませんが、『延喜式』神名帳には「岡太神社」として官 幣小社に列されています。 また、筑前国岡田村の者が神功皇后に従ってこの地に至り、廣田神社造営のため 廣田村に居住、その子孫が先祖の霊を祀ったとも伝えられています。 |
西宮市岡田山66 |
若宮神社 | ![]() |
祭神;若宮大神創立年は詳らかではありませんが、戦国時代のものとされる「廣田殿社中宮立之覚」(『西宮神社文書』)にみられる「若宮殿」が当社のことと考えられています。 明治11年、廣田神社摂社に定められました。 |
西宮市高座町181 |
■末社
境内社:五末社(八坂神社・子安神社・春日神社・地神社・稲荷神社)・松尾神社・齋殿神社
境外社:須佐之男神社・愛宕神社・武甕槌神社・風神社・塞神社・六甲山神社
名称 | 写真 | 詳細 | 地図 |
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![]() |
創立年は詳らかでありません。旧社地においては、廣田神社本殿の周囲に鎮座していましたが、享保12年現社地に移転の際、本殿土塀内に移されました。明治以後、五社同座に祀られるようになりました。 |
廣田神社境内 |
松尾神社 | ![]() |
祭神;大山咋命創立年は詳らかでありませんが、『諸神記』廣田の条に「四殿 南宮 松尾」とあり、この松尾社を後世、第四殿から独立して一社に祀ったものと考えられます。 その時期は『諸神記』成立後の戦国末期以降と考えられます。元亀頃と推定される「廣田社中宮立之覚」(『西宮神社文書』)には「松尾社」の名がみえます。 また江戸時代には西宮の酒造家の信仰をあつめました。 |
廣田神社境内 |
齋殿神社 | ![]() |
御祭神;葉山媛命(はやまひめのみこと)齋殿神社御祭神・葉山媛命は、神功皇后廣田神社御創建の際、皇后の命をうけて、天皇皇大神荒御魂を御心廣田の国に鎮際された最初の斎宮で旧暦4月8日の祭日には歴代の神祇伯白川氏は特に深い関心を有して参拝されたことが伯日記に散見されている。古くより廣田神社の東北御手洗川岬に鎮座せられたが、亭保12年の還座にあたり当社も境内西山に還座し、明治44年末社松尾神社に合祀せられ更に廣田神社本殿復興に際し、一宇を設け祭祀を厳修することになった。 現在の祭日は5月8日である。 |
廣田神社境内 |
須佐之男神社 | ![]() |
祭神;須佐之男命創立年は詳らかではありませんが、貞享年中(1684~87)の石灯籠があったとされることから、江戸時代中期には創祀されていたようです。昭和18年、大社村と西宮市の合併記念として地元・中区により境内が整備され、さらに湊川神社摂社・神奈備神社の旧本殿古材を譲り受けて本殿を改築しました。 |
西宮市中須佐町69 |
愛宕神社 | ![]() |
祭神;迦具土神創立年は不明ですが、今から3、4百年前に廣田村に大火があり、火伏せ、防火の神である愛宕神を祀らなかった祟りであるとして、京都の愛宕神社より勧請したと伝えられています。 |
西宮市愛宕山128 |
武甕槌神社 | ![]() |
祭神;武甕槌命創立年は定かではありませんが、江戸時代の記録には「毘沙門社」として記載されています。武甕槌命は天孫降臨に先立ち、大国主神に国譲りを交渉した神であり、雷神、武神、軍神、刀剣、弓箭の守護神です。 |
西宮市広田町61 |
風神社 | ![]() |
祭神;級長津彦命・級長津姫命創立年、造営年は定かではありませんが、古くから石祠2宇にて祀られています。昭和11年、廣田地区の崇敬者によって覆屋が建てられ、周囲の土塀が修繕されました。 日本書紀によると、級長津彦命は、伊弉諾尊が朝霧を吹き払った息からお生まれになった神であり、級長津姫命とともに、暴風雨を鎮める風の神として信仰されています。 |
西宮市五月ヶ丘101 |
塞神社 |
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祭神;八衢比古神・八衢比売神・久那斗神創立年は不明です。明治19年、今まで桜樹を神木として祀ってきたのを石祠に改造し、昭和16年に木造社殿に改造しました。八衢比古神、八衢比売神、久那斗神は塞三柱神と称えられ、村落や道の要所に祀られ、悪霊や外敵の侵入を防ぐ神です。 |
西宮市奥畑町136 |
六甲山神社 | ![]() |
祭神;菊理媛命創立年代は明らかでありませんが、平安末期の文書に、六甲山が廣田神社の社領である旨記載されていますので、当時すでに鎮座されていたと考えられます。俗に「石の宝殿」と称し、慶長18年(1613)に西宮願人の奉加と鷲林寺南勝坊の奉仕によって建立されたことが、石祠扉に刻まれています。 廣田神社の奥宮ともいわれ、古来祈雨の神として庶民の崇敬を集めました。 |
西宮市越水字七ヶ村社家郷山六甲山 |
■末社
境内社:五末社(八坂神社・子安神社・春日神社・地神社・稲荷神社)・松尾神社・齋殿神社
境外社:須佐之男神社・愛宕神社・武甕槌神社・風神社・塞神社・六甲山神社
名称 | 写真 | 詳細 | 地図 |
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創立年は詳らかでありません。旧社地においては、廣田神社本殿の周囲に鎮座していましたが、享保12年現社地に移転の際、本殿土塀内に移されました。明治以後、五社同座に祀られるようになりました。 |
廣田神社境内 |
松尾神社 | ![]() |
祭神;大山咋命創立年は詳らかでありませんが、『諸神記』廣田の条に「四殿 南宮 松尾」とあり、この松尾社を後世、第四殿から独立して一社に祀ったものと考えられます。 その時期は『諸神記』成立後の戦国末期以降と考えられます。元亀頃と推定される「廣田社中宮立之覚」(『西宮神社文書』)には「松尾社」の名がみえます。 また江戸時代には西宮の酒造家の信仰をあつめました。 |
廣田神社境内 |
齋殿神社 | ![]() |
御祭神;葉山媛命(はやまひめのみこと)齋殿神社御祭神・葉山媛命は、神功皇后廣田神社御創建の際、皇后の命をうけて、天皇皇大神荒御魂を御心廣田の国に鎮際された最初の斎宮で旧暦4月8日の祭日には歴代の神祇伯白川氏は特に深い関心を有して参拝されたことが伯日記に散見されている。古くより廣田神社の東北御手洗川岬に鎮座せられたが、亭保12年の還座にあたり当社も境内西山に還座し、明治44年末社松尾神社に合祀せられ更に廣田神社本殿復興に際し、一宇を設け祭祀を厳修することになった。 現在の祭日は5月8日である。 |
廣田神社境内 |
須佐之男神社 | ![]() |
祭神;須佐之男命創立年は詳らかではありませんが、貞享年中(1684~87)の石灯籠があったとされることから、江戸時代中期には創祀されていたようです。昭和18年、大社村と西宮市の合併記念として地元・中区により境内が整備され、さらに湊川神社摂社・神奈備神社の旧本殿古材を譲り受けて本殿を改築しました。 |
西宮市中須佐町69 |
愛宕神社 | ![]() |
祭神;迦具土神創立年は不明ですが、今から3、4百年前に廣田村に大火があり、火伏せ、防火の神である愛宕神を祀らなかった祟りであるとして、京都の愛宕神社より勧請したと伝えられています。 |
西宮市愛宕山128 |
武甕槌神社 | ![]() |
祭神;武甕槌命創立年は定かではありませんが、江戸時代の記録には「毘沙門社」として記載されています。武甕槌命は天孫降臨に先立ち、大国主神に国譲りを交渉した神であり、雷神、武神、軍神、刀剣、弓箭の守護神です。 |
西宮市広田町61 |
風神社 | ![]() |
祭神;級長津彦命・級長津姫命創立年、造営年は定かではありませんが、古くから石祠2宇にて祀られています。昭和11年、廣田地区の崇敬者によって覆屋が建てられ、周囲の土塀が修繕されました。 日本書紀によると、級長津彦命は、伊弉諾尊が朝霧を吹き払った息からお生まれになった神であり、級長津姫命とともに、暴風雨を鎮める風の神として信仰されています。 |
西宮市五月ヶ丘101 |
塞神社 |
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祭神;八衢比古神・八衢比売神・久那斗神創立年は不明です。明治19年、今まで桜樹を神木として祀ってきたのを石祠に改造し、昭和16年に木造社殿に改造しました。八衢比古神、八衢比売神、久那斗神は塞三柱神と称えられ、村落や道の要所に祀られ、悪霊や外敵の侵入を防ぐ神です。 |
西宮市奥畑町136 |
六甲山神社 | ![]() |
祭神;菊理媛命創立年代は明らかでありませんが、平安末期の文書に、六甲山が廣田神社の社領である旨記載されていますので、当時すでに鎮座されていたと考えられます。俗に「石の宝殿」と称し、慶長18年(1613)に西宮願人の奉加と鷲林寺南勝坊の奉仕によって建立されたことが、石祠扉に刻まれています。 廣田神社の奥宮ともいわれ、古来祈雨の神として庶民の崇敬を集めました。 |
西宮市越水字七ヶ村社家郷山六甲山 |